初めて高杉さんを見た時に感じたことは、まれに見るようなハンサムな顔の人だな、ということだった。

その頃私は二回生で、高杉さんは院生だった。ゼミ選択説明会で助教授の手伝いをしていた彼は、十把一絡げの大学生たちの中で妙に目立っていたのをよく覚えている。

やけに黒いということ以外はきわめてベーシックな格好はすごく身ぎれいで垢ぬけていて、どこか学生らしくない。不思議と品の良さのようなものがあって、年のころに似合わない雰囲気の人だと思った。いや、もしかしたら実際にものすごい年上なのかも。と、きっちりされた服と比べ少し伸びすぎたような前髪のかかる、まともに見ると若干面喰ってしまいそうな迫力ある、日本で言うところの男前な顔を眺めながら考えていた。本当に黒も黒、真っ黒というような色の前髪の隙間から覗く切れ長に伏せた目が、なんとなく紫がかって見えたような気がした。

 

新二回生がひとしきり席に着いたころ、回されていたプリントが自分の目の前でなくなったのと同じタイミングで「まだプリントを持ってない人は」とすこしぎょっとしてしまうほど低い声が上がった。

顔をあげると、黒いニットの手が挙がるのが見えた。

声の主は高杉さんで、それがわかったとき私ははじめて耳にした彼の声になぜかとまどい、挙手するには少し遅れすぎたテンポに若干の気まずさを感じて、呼び止めるように手を挙げた。

低い声がうわずったそれが、不思議と耳に残った。

一方の高杉さんは何も感じていない素振りで、やけに落ち着いた足取りでこちらにきて、はい、とも、ん、ともつかない言葉ともいえない言葉でプリントを差し出した。細身の体格の割にはしっかりした、今風でない手指に妙に目を奪われる。

奇妙な、今思えば「感慨」だった感情をその時はどう名づけたものかもわからないまま、私はなんとかやっとのことで「ありがとうございます」とだけ返した。それが、高杉さんとの初めてのやりとりだった。

 

 

 

高杉さんの目は、たまに、紫がかって見えることがある。

光の屈折だか透過だか、本当になにか紫の色素があるのか、はたまた私の目のせいなのか。とにかく、高杉さんの目は、たまに紫色だ。

それはたとえばテレビを見ているときであり、あるいは縁側で読んでいた本から顔を上げ庭を眺めるときであり、または、風呂上りに髪が濡れたまま布団にもぐりこんで開いた携帯電話のわずかな光に照らされるときで、

そういったときに顔を盗み見て目をよくうかがうと、虹彩が、不思議と紫が透けたように見える。

それを見ると私は、得も言われぬ気持ちになる。

どうも、高杉さんといるといままでになかった自分を見つけたり、また、元々あるけれどもあまり表には出していない自分を引き出されるようだ。

 

少し前に、学生が集まってゼミ室の大掃除をしていた時、高杉さんが何気なく言ったことに、ほとんど反射的に皮肉を口にしたとき、我ながら嫌味なくらいうまい言い回しがスッと出てきたこと、何より普段は言わないようにしているのを、別にカチンときたわけでもないのに当然のように出してしまったことに自分自身驚いた。しまった…と思ったが口から出た言葉は戻りもしない。

それはなにも私ばかりではなく、その場にいた6、7人ほどの学生たちもそうで、皆はとんでもないものを見る目で私を見たっきり、その場は静まり返った。

今年入ったばかりの二回生が、教授にも一目置かれている院生に、そのつもりはなくとも食ってかかったようなものだから、さもありなんである。だが、当の高杉さんは少し驚いた顔をしてから、フッ、と噴出したのである。

周囲のほっとした空気の中発された「言うな、お前も。」という言葉は、眉間に皺をよせるような、はじめて見るその笑い方の前にかき消えた。

口をついて出た皮肉も、それを気にせず笑う、眉間によったしわや左右に大きく笑いをかみしめるように開いた口で引かれたほほのしわと陰影も、何もかもが初めてのものなのに、まるで何十年、何百年も前から親しんだ一連の流れのように思えたから。

初めて会ったそのときからほこりのようにつもったひとつひとつのささいなとっかかりが、一つの明確な形にいきついた気がした。

初めて声を聴いた時の感情を「感慨」と名づけるならば、これにはなんと名づければいいのだろう。

ずっと待っていたような、こうなることがわかっていたような、しかし一方で祈るような気持ちもあったような気がする。

一言ではあらわせないこの複雑で大きな感情を、それでもあえて一言で言うとしたら、それはたぶん「よかった」なのだろう。

ああ、よかった。

何がかはわからない。ただ、心の底から、そう思った。